おかげさまで

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土曜日は、うちのじいさんの3回忌ってやつに参加してきた。法事というもの。3回忌ということだから亡くなってから、2年がたったのか。はやい、いやそうでもないな、ようやく、いやそうでもないな、そんなに時の流れ自体を意識していないというか、でもやっぱりもうそんなに立つんだ、という想いが正直な感想か。

そのときの日記を書いていた。

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こういったら不謹慎かもしれないけれど、法事なんて所詮は親族の同窓会みたいなもの、まあとりあえず顔は出しておくか、くらいな気持ちで参加。まあ、男孫ってぼくだけだから、昔ながらの考えの人は、不謹慎なんて思うかもしれないけれど、それでも挨拶がてら顔を出してお参りするくらいでもいいよね、とは思っている。

でも、意外にもそんなんでいいんだって、みたいなことを和尚さんがいってた。

今元気に生きているのは、ご先祖様のおかげ、おかげさまでって挨拶は、そういう由来があるって説があるようだ。要は、これまでのご先祖様への感謝の気持ちをこめて、「おう、じっちゃんこっちは元気だぜ」、くらいでいいらしい。

さてさて、これだけ歳をとる(自分自身)といろいろなひとのお葬式に参列しているせいか、いろいろな宗派の「お経」をきいたことになる。でもやっぱり、ちっさいころからなじみのある「浄土宗」が聞き慣れている感じかもしれない。うちの祖母は僕が小さいころになくなっているし、それ以来のお付き合いだから。あとは父方(おっと、きのうの法事は母方の祖父)のほうは、日蓮宗だったかな。これもちょっとはじめは違和感あったけれど、父方の祖父ももうなくなって15年以上たつから、なんどかお葬式、法事もいったし、それから祖母も数年前に亡くなって、同じ宗派で式が行われたから、こちらのお経も聞きなれた。

年をとるにつれて、聞くお経のバリュエーションが増えるってのも、それはそれでいやだな。

それにしてもこうしたお経をきくとあらためて、現代における宗教観っていったいなんだろうな、って思いに駆られる。案外、いや案の定なのか、仏教のこと、知らないんだよね。なあんとなくこの手の宗教の由来って、だいたいは「現世はとっても苦しいけれど、生まれ変わると天国に行けて幸せになれるように。」的な願いがもとになっているんだよね。「信じる者は救われる」とか「念仏を唱えればよい」とか。あとは、そのため、それが実現されるための日頃心がける「行為」が「倫理」なんかに関係しているとか、そんな程度の理解しかない。

ヨーロッパの歴史をちょこっと勉強したことがあるから、旧約→新約、のお話はちょこっと知っているけれど。

知識として勉強しておいたほうがよいね。

どうでもいいが、学生の頃、4回生くらいだったな、90年代、いろいろと社会問題を起こした、教祖が逮捕されたりもした某宗教団体の勧誘のビラが家のポストに入っていたことがあった。そこには彼らなりの宇宙観が書いてあった。ものすごい疑似科学的、以前書いた日記で紹介した文献から引用するに第2種疑似科学的というか、難しい専門用語がわりと登場する割には論理はでたらめで、一般相対論を学び基本的な宇宙論を学んだ理学部性にそれを信じろ、といわれてもねえ、なんて思ったことがあったな。

それでも実は世界の物理学者でも半数は行かないかもしれないけれど、思ったよりも多くの学者さんが宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が主かな)を信じてたりするみたいだ。神がつくった「ルール」には確かに興味ある人たちだからね。それに全部が全部じゃないけれど、やはり行動規範として適切だったり、それから何といっても、何世紀もの間、多くの人々がよりどころにしてきた、そのパワー、これはやはり何かそこに真理があるのかもね、って思っても不思議ではない気がするから。そういう文化を非常に長い年月継承してきた人類への畏敬の念(こういうときってこの言葉便利だ)なんだろうなと思うわけだ。

なんの話だっけ、ああ法事か。

そういうわけでそんなことを考えながら法事に行ってきました。

以上。

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