ニューカレドニアの歴史、市立博物館と第二次世界対戦博物館訪問で学んだこと:2019年3月、ニューカレドニア旅行No.9

2019年3月、ニューカレドニア旅行
2019年3月、ニューカレドニア旅行

このニューカレドニア旅行記の最終回です。最後は濃い内容を書きます。ニューカレドニアの歴史について現地で勉強したことを書いてみます。

大充実の2つの博物館

訪れたのは市立博物館と第二次世界大戦博物館。以下、ここで得た情報をもとにして記事を書いていきます。

まず市立博物館は1874年にニューカレドニアはじめての銀行として建てられましたが、ほどなく倒産してしまいます。しかし1882年に役所にするために市が建物を買い取り、それからおよそ100年間、ヌメア市の市役所として使われました。外観はとても素敵です。場所は中心街の中央にあるタクシン広場に面した場所にあります。

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もう一つは、ニューカレドニアの歴史について学べるもうひとつの博物館は旧市街・繁華街の北の外れにある第二次世界大戦博物館です。こちらは市立博物館と対照的な歴史やおしゃれ感をほとんど感じさせない普通の建物(小さめ)でした。

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市立博物館では、19世紀からはじまったニューカレドニア植民開始時点から第一次世界大戦までのこの歴史について学べます。第二次世界大戦博物館では、第二次世界大戦とそれ以降の歴史について学べます。

最終流刑地としてのニューカレドニアとその開拓史

開拓開始時代の展示は市立博物館のグランドフロアにありました。展示内容とあわせてその歴史を語っていきます。

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なお、こうした日本語訳のプリントも借りられますので、これを見ながら鑑賞すればよく理解できると思います。

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1864年、最終流刑地としての歴史からはじまります。フランス政府が植民地統治としてまず行ったのは、自由入植民者と流刑者、そして原住民であるカナック人の区画整理でした。これによりコーヒー栽培に適した肥えた本島東海岸にある土地は自由植民者と流刑者が所有することになり、一方のカナック人はそれ以外の痩せた土地へと追いやられてしまいました。

当初は、流刑者による開拓を試みたようですが、いかんせんニューカレドニアは最終流刑地としては非常に温暖な気候だったこともあって、流刑者自体もしっかり働くこうとはせず、その開拓は非常に効率が悪いものだったそうです。そこで、フランス政府はニューカレドニアをより推進するため、コーヒー栽培などで豊かなれるといった一大キャンペーン(プロパガンダ)を展開し、自由の意思ニューカレドニアに移住する人々を募集しはじめました。

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こうした移民たちには特別待遇が与えられれこともあり、同じ場所で開拓をすすめる流刑者たちとの角質が生まれ、自由移民が増えるについれて枯れたとの共存が難しくなってきました。

また年々と流刑者自体が減少したことからそもそもの流刑地としての意味合いも次第に薄れていくとともに、自由移民者と流刑者だけでは、鉱山と農業の労働者が不足するようになりました。そこで、ニューカレドニア開拓時代の最大の功労者の一人であり、1894年に当時のニューカレドニア知事に就任したフイエは、ベトナムや日本、そしてジャワといったアジアからの植民者を求めるようになりました。ニューカレドニアと日本のつながりはここから始まります。

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なお、流刑地としてのニューカレドニアは、1922年以降は一切フランス本国から流刑者が来なくなり、1931年にはニューカレドニアは流刑地としての役割を終えました。

ニューカレドニアの経済、コーヒー栽培の失敗

フランスがニューカレドニアへの自由移民者を募集するに当たり大々的に宣伝したのが、コーヒー栽培による経済発展でした。フランス政府は、ニューカレドニアを新しいエルドラドだと宣伝しまくったそうです。彼らにはニューカレドニアまでの旅費も提供することを約束しました。この宣伝は一定の効果があったようで、多くの自由植民がニューカレドニアに移住してきます。

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ところがコーヒー栽培には成果が出るまでに何年もの長い時間がかかること、さらには20世紀初頭、南米ブラジルを中心とした大量生産によるコーヒーの価格破壊が起こり、ニューカレドニアのコーヒー栽培は危機的状況となりました。

ニューカレドニアのインフラ整備

フイエ知事はニューカレドニアの経済発展のため、道路、鉄道、港の整備といったインフラ整備にも力を入れます。鉄道に関してはヌメアとプランテーションの中心地でもあった本島中部のブーライユを結ぶ計画でした。しかし、ニッケル価格の暴落やコーヒー価格の暴落などによる幾度かの経済危機のため、インフラ開発は思うように進めることができませんでした。なお、現在でもニューカレドニアには鉄道はありません。

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ニューカレドニアの食生活

さてニューカレドニアを訪れると思った以上にフランス的な食事にめぐりあうわけですが、特に肉料理の充実ぶりには正直驚きましたが、その礎は植民開拓時代に多くの家畜をフランス本国から導入したという歴史があったところと関係しているようです。

旅行中にはいただけなかったのですが、鹿肉料理はいまでもニューカレドニアの名物だということです。

ニューカレドニアと宗教

ニューカレドニアにおいても本国フランスと同様に非宗教的社会政治が求められましたが、植民地にすでに根強く広がっていたカトリック宗教団体に対し、フリーメイソンがフイエ知事とともに圧力をかけ、自由植民開拓と非宗教的社会の確立に力を注ぎました。

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このニューカレドニアの非宗教化についてはかなり力を入れた展示となっていたのですが、正直なところなぜだったのかは展示内容だけでは理解することができませんでした。(近代化と教育面で影響力が大きかったのでしょうか。)

ニューカレドニアとニッケル

ニューカレドニアは現在でもニッケルの産地として有名です。1880年から1890年の間、ニッケル採掘ブームが起こり、ニューカレドニアは発展を遂げるのですが、1910年になるとニッケルの価格は低迷し、多数の鉱山会社が次々と倒産してしまいました。そのなかでル・ニッケルという会社がこうした倒産した会社を次々と吸収し、巨大な鉱山会社へと姿を変えていきました。ル・ニッケルは現在でも創業しています。1910年にヌメアに独自の工場を建てました。

ニューカレドニアと第一次世界大戦

ニューカレドニアはフランス領であったこともあって、第一次世界大戦はこの島にも大きな影響を与えました。

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1914年6月28日、オーストリア皇太子がサラエボで殺害されたことをきっかけに第一次世界大戦が勃発。ニューカレドニアはフランス植民地の一員として参戦することになります。ニューカレドニア人にとっての戦争は、ニューカレドニアに連合軍であったフランス、ニュージーランド、オーストラリアの戦艦がヌメアに集結、当時敵国ドイツの植民地であったパプアニューギニア、サロモン諸島の奪取するところから始まりました。しかし、1915年になるとニューカレドニア人もヨーロッパ戦線へと参戦させられるようになります。1915年4月23日、700人のニューカレドニア人を乗せた戦隊がフランスへ向けて出向、ベルギーやフランスの北東部の激戦地へと派遣されました。

戦争は当初から激しいものであり、フランス政府はニューカレドニア原住民に対し数回の追加招集を要請します。こうしてニューカレドニア人が次々とヨーロッパ戦線へと送られるようになりました。過酷な塹壕戦のなかで彼らに与えれた役割は死者や負傷者を担架で運ぶこと、「溝の清掃人」と呼ばれたそうです。

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戦争が長引くとニューカレドニア本島でも衣類品、食料品不足に見舞われました。またすべての船が戦争のために徴発され、鉱石の輸出はストップ。しかし1917年にアメリカ合衆国参戦をきっかけに、飛行機、戦車、潜水艦、武器の制作のため、日本やアメリカに再びニッケル鉱石輸出が再開されるようになりました。

なお第一次世界大戦中に、ニューカレドニア本土ではカナック人が不当に戦地の最前線に送られることを不服として暴動が何度か勃発しました。その都度知事はその鎮圧に力を入れなければなりませんでした。こうした暴動は1年ほど続いたそうです。

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そして1918年、第一次世界大戦は集結。2000人のニューカレドニア兵士のうち、193名のニューカレドニア人と383名のカナック人がこの戦争で生命を落としました。

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生き残って島に帰ってきた兵士たちは地元住民から大歓迎されます。彼らは、終戦後、戦地での経験を活かし、看護師、医療センターの職員などに就いたそうです。しかしこの戦争がニューカレドニア人に与えた精神的影響は計り知れなかったそうです。

理解度チェックプリントがありました!

面白かったのが、展示フロアごとにこのような理解度チェックプリントがあったことです。

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しっかり宿題をこなそうと持っていたのですが、フランス語オンリーで諦めました涙。

第二次世界大戦、第二次世界大戦博物館へ

ニューカレドニアの歴史について学べるもうひとつの博物館は旧市街・繁華街の北の外れにある第二次世界大戦博物館です。こちらの展示も文字パネルが相変わらず多く、その展示の半分以上は、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線双方を含む第二次世界対戦の概要を説明するものでしたが、とても充実したものでした。

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文字パネルはフランス語が主体、時折英訳されていますが、入場者全員にこのようなタブレットが手渡され、こちらがフランス語、英語以外の言語、もちろん日本語も含む、が対応しているので、日本語だけでも問題なく鑑賞することができます。ただし、これがありえないくらい!見づらい仕様だったので最初に少しだけ使った後は使うのをやめました笑。

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お硬い博物館ですが思った以上に観光客がいました。ただし日本人は我々以外まったく見かけませんでした。もっとも南の島のリゾートでこんなところにわざわざ行く必要はないでしょう笑。

第二次世界大戦におけるニューカレドニアの立場は連合国の拠点になったこと。敵国は日本です。日本は大戦開始時に多くの東南アジア・オセアニアの欧米植民地を奪取していましたので、これらを奪い取るための連合国の拠点となります。少々細かい話をしますと、フランス自体は、早々にドイツに降伏していたのですが、1940年9月にシャルル・ド・ゴールを中心とした自由フランスの植民地となり、第二次世界対戦に参戦することになります。

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ニューカレドニアはもともとニッケルの産地でもあり、これが軍事的にも利用されることになりました。

アメリカ軍の拠点となったことが、大いにニューカレドニアの発展に貢献しました。特に、衛生状態の大幅な向上は特筆すべき電です。アメリカ軍はニューカレドニアを拠点にするにあたり、まず行ったのが衛生対策でした。最大の敵は敵国ではなく自国の衛生、疫病だと。そこでアメリカ軍は、伝染病拡散の対策として、大規模な医療部隊をニューカレドニアに派遣、ここに負傷兵等の病院を作るだけでなく、島民に無料で予防接種を受けさせるなどして、ニューカレドニアの衛生状態を大幅に改善させていきました。また、こうした医療技術が島にも浸透し、島の医療水準自体も大きく進化しました。

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さて第二次世界大戦後のニューカレドニアですが、周りのオセアニアや東南アジアの国々が欧米から独立するなか、ニューカレドニアはフランスの海外領土のままでとどまりました。しかし、時代の流れもあり、1957年5月10日に本国および海外領土含む全フランス国民に選挙権が与えられることになりました。

日本とのつながりですが、1940年に自由フランス国の植民地として第二次世界対戦参戦してからは日本人は監修されたり強制退去させられていたりしましたが、戦後の1951年12月からは再び交流が始まり現在に至っています。

以上でニューカレドニアのシリーズは終了となります。しばらくは訪れる機会はないでしょうが、特に本島北部は訪れることができなかったので、後年またの機会にしっかりと訪れたいと考えています。

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