「食わず嫌い」嫌いと時代の流れ

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ちょっと話題が古すぎますが、「ネットは暇とバカのもの」なんて新書がちょっと話題になってましたね。

突然ですが、僕は人から「苦手なもの(食べ物)ある?」と聞かれたときに結構戸惑います。決してないわけじゃないのですが、基本とりあえず口にしてみてその時に好きか嫌いかを考えればいいって思っていますので、とりえあず何でも食べる口です。というのは、あまり過去の記憶とか先入観に邪魔されずに純粋においしいものを見出したい、っていうとちょっとカッコつけすぎですが、要するにおいしいものを逃すのはもったいない、そんな感じでしょうか。

尊敬する友人が昔言ってたことも影響しています。

「僕の好きなものはおいしいもので、嫌いなものはおいしくないもの」

ちょっと行間読みすぎかもしれませんが、そこには固有の食べ物の情報やあるいはそれらにまつわる過去の記憶とか一切反映されてないな、って。この言葉はぼくにとって一つのブレイクスルーでした。

もうひとつは、大学に入って初めて一人暮らしをした初日に行った下宿のそばの定食やさんででた「かぼちゃの煮物」。

正直、かぼちゃのような甘いものがご飯のおかずっていうのがどうも苦手で家ではまず食べなかったのですが、この定食やさんのかぼちゃの煮物は、何といってもだしの味がすばらしく、いやいやながら口にしたとたんにこれまた衝撃が走りました。味王の「うーまーいーぞぉー!」って程ではないですが、ちょっとそう叫びたくなる、そんな味でした。しかもそれが生まれて初めて一人暮らしを開始した直後に最初に一人で食べた食事でしたからインパクトはあったのでしょう。それ以来かぼちゃの煮物は好物になりましたし、今まで嫌いだったものもとりあえず口にしてみる価値はあるかもねと思うようになったと思います。

少々話は変わって。

今でこそゲームとかやるようになっていますが、実は僕は高校の3年間、そして浪人時代、全くゲームをやりませんでした。それはまったく興味がなかったから、ただそれだけです。年代で言うと1991年から1995年初頭。ちょうどスーファミが出て1年たったくらいから数年ということでまさにスーファミの全盛期、そして期間後期にはプレイステーションが発売された、そんな時代でした。

音楽(トランペットとドラム)、そして受験も大いに関係ありますが、いざ無事に大学に入ったとき、ゲームに関して「時代から取り残されている」、そんな危機感を持つようになったんです。

そんなわけで、とりあえず時代に取り残されないようにゲームやってみよう。ということで、バイト代で近所の中古ショップでスーファミを買い、そしてもう少しお金を貯めてプレステを買うことにしました。

結局、時代に取り残されるとか関係なくはまっていくわけですが、このときにプレイしたのがファイナルファンタジーシリーズだったんです。スーファミ時代の4、5、6はもちろんのこと、プレステの7,8なども一気に大学のころプレイしています。

食べ物のこと、ゲームのこと、あまり関連性なさそうですが、そんな中でも共通しているのは、「とりあえずやってみる」ということだといえます。あまり考えすぎる余地はなかったのだと、この点も共通しているのではないでしょうか。面白さやおいしさはとりあえずやってみるとわかるんじゃないかなって。いややらないと想像もできないし、やりながら感じて考えればいいって、どちらもそう思って始めたと思うのです。

ミーハーといえばそれまでなのかもしれませんが、実際、この2つの決断で僕は人生変わったというか楽しくなったと思いますよ。

たとえば食わずぎらいの件では、何でも食べるようになって食の楽しみが一気に増えた。合わせてお酒も飲むようになったので、この食事やお酒関係で友達も増えました。

ゲームも。あのころゲームをプレイしていなかったら、今の僕はないと思いますよ。特にゲーム音楽オケを通して、10歳下、ひとまわり下の世代と交流できるようになったわけですから(向こうは表面上の付き合いかもしれないですがw)。

そうこれ、この一回り下のひとたちと、たとえ表面的であっても交流できるようになっているのが大事だと思うんですよね。これは裏返せば逆に一回り上の人たちとも交流ができるようになるとも言えますし。

今日、これを書いていていいたいことは、要するに、

こうした「食わず嫌い」じゃない考え方を持っていると、とりあえず新しい概念・世界や、少数の人たちの間でしかはやっていない(そのひとたちが)面白いと思っていることを、むやみに批判する、拒絶する、怖がるって発想がほとんどなくなる気がする

、ってことです。

だって「もったいないじゃん」!

そういうことです。

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