大学、大学院で自分が専攻していた分野は、はっきりいってとっても難しかった。授業に出る目的は、わからないこと、全く理解できないを知ってショックを受けることであったともいえる。
そんな分野の研究室に配属(細かく言えば学部の頃は課題研究、大学院はそのまま研究室配属)してから痛感したのは、これらの研究に携わる人、先輩も助手も助教授も教授も、特に教授であっても、質問者、教えている人のレベルに応じて、その人の視点に合わせてとことん丁寧に説明してくれる精神に富んでいた、ということであろうか。
最近某件にてちょこっとテレビに映ってた学部時代の課題研究の指導教官(当時も教授)で大変お世話になった方は、ゼミで5,6時間過ぎてもなお一緒に付き合って議論、いや講義をしてくれた。きっとお忙しいはずなのに。それが仕事なのかもしれないけれど、とにかく丁寧だったと思う。自分の研究そっちのけで学生の質問につきあう。
大学院のときもそう。先生方は部屋に滞在中は、絶対に部屋のドアをよほどなことが閉めない。誰でもいつでも都合など伺わずに質問・議論しにいってもよい、というのがルールだった。
そして、どの方々も、相手に理解してもらえないのは、「自分自身の理解があまい」、「説明がつたない」、「相手の疑問点を正確に把握して話していない」、という思いが大変強く、「なぜ自分が言ってることを理解できないのか」といったようなある意味「上から目線」みたいな表現というのはほとんど感じられなかった。もっともそう思うのは、自分自身学部ないし修士課程だったからかもしれないが。
そんな人たちは、某経済新聞のような解説記事は書かないと思う。
今日の多くの紙面を割いて、「年金のこと」を書いてあったが、まったくまとまりがなくあきれ果ててしまった。
無駄な記述が多いし、趣旨が伝わりにくいし、何がポイントなのか文章でもわかりずらいし、図の使い方も効果的でない。そしてなにより、いろいろごたくを並べてはいるものの、結局大した結論になっていない。
いったい誰に向って「述べたい」のであろう。
この新聞社の文章力は以前よりずっと疑問に思っている。先日もとても基本的なことだったけれど、指示代名詞がどの名詞を指しているのかがきわめてあいまいであったため、別のニュースサイトや資料・文献で調べるはめになったこともあった。
よほど他の新聞社の文章のほうが、その内容はともかくとして、日本語としてずっと自然であると思っている。理解できないことも多々あるもののそれでも言いたいことはまだ理解できる。
新聞はアートじゃなくていいと思う。小説でもなくても、もちろん論文とかでもなくても。
そもそもアートだと伝わりにくいのが普通なのかというとそうでもない。難解なようだけど、意外にもメッセージをとらえやすかったり絵なんていっぱいある。
権威をかぶっていて、一見高尚そうでかつ難解そうにあえてみせる文章というのは、案外簡単に化けの皮がはがれるもの。実はたいした中身がないと。そして無知をさらけ出すことにつながる。
ナルシスト的な内部にしか「共感」しえない文章など経済新聞に必要ない。
ただ意味なく表面的にへりくだるのではない謙虚な姿勢が大事。本当に難しい問題を取り上げるならこれは絶対に求められるはず。