2016年7月 フランス「印象派とグルメの旅」 1-10章:バイユーのタペストリー

2016年7月 フランス「印象派とグルメの旅」
2016年7月 フランス「印象派とグルメの旅」

訪問日時:2016年7月16日、午後3時頃

こういうときにこそ世界史選択の知識が発揮されるのです。ヨーロッパ旅行の面白さはここにあり。

英仏の因縁の起源「ノルマン・コンクエスト」を綴った壮大なタペストリー

ノルマンディといえば、第2次世界大戦末期のノルマンディ上陸作戦で有名ですが、そんな英仏海峡を挟んだ戦いはいまからおよそ1,000年前にも行われました。

イギリスとフランスは中世より数々の紛争を行ってきていますが、その起源となるのが「ノルマン・コンクエスト」といっても過言ではありません。

しかし、そもそもなぜ、そしてこのノルマン・コンクエストとバイユーがどう関係しているのか。

それはこの事件の詳細を後世に語るために物語詩のような形で作成された長大なタペストリーが、現在この街の「タペストリー博物館(La Tapisserie de Bayeux)」に保存されているからです。

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このタピストリーの歴史的価値は、実際ノルマン・コンクエスト」「ハロルド2世 (イングランド王)」「ウィリアム1世 (イングランド王)のWikipediaを見てすぐわかるかと思います。どのページにもこのバイユーのタペストリーが引用されているからです。

ということで、その歴史的価値の高さから、このバイユーのタペストリーは、2007年にユネスコの世界の記憶(Memory of the World, Mémoire du Monde)に登録されています。

様々な場所を旅したタペストリー

このタペストリーは、11世紀から21世紀にかけて、様々な場所で展示されていました。

初期の頃はノルマンディやイングランドの教会やお城など様々なところで展示されていたようですが、このタペストリーについての記述があるのは1476年に書かれた書物が最初のようです。この頃にはこのタペストリーはバイユーの大聖堂に保管されており、毎年7月1日から8日のお祭りの時に大聖堂の身廊に展示されていたとのことです。そして、ハロルドがギョームを裏切ったことをこのタペストリーに基づいて人々に語り継いで言ったと言われています。

こちらがその大聖堂です。タペストリーを見に行く前に見学していました。

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しかし、どうやら17世紀くらいにあるとこうした年一回の催しも行われなくなったようで、フランス革命の頃までこのタペストリーの存在は忘れさられていたようです。結局、国の芸術庁の所有となったようです。しかしまたその後行方不明になりましたが、地元の弁護士のランベール・ルフドルスティエールという人が保存していたため、難を逃れたようです。

そして、帝政時代の1804年、パリに運ばれ一般公開されていました。それからは、1842年からは、ゴール広場にある図書館に移され、1913年には、ドワイヤンホテルというところに移されたそうです。

第二次世界大戦時はドイツ軍の所有となりましたが、1944年にフランスが解放されると再びパリに戻ってきました。しばらくの間ルーブル美術館の地下に保管されていたようです。

そして、戦後バイユーにこのタペストリーが戻ってきたのは結局1983年のことだそうです。現在ではここバイユーのタペストリー博物館に保管・展示されています。

長大な物語を綴るタペストリー

しかし、とにかくこのタペストリーは長い!!高さは50cmほどですが、長さはなんと70mもあります。

ここは世界中から多くの観光客がくるようで、オーディオガイドが無料(入場料は別途取られます)で配布されますが、かなり多くの言語に対応しており、当然日本語版もありました。強制的に日本人だから日本語版が手渡されてしまったのですが、結果的によかったです。

さて、このタペストリーには、1064年から1066年10月14日に行われたヘイスティングスの戦いに至るまでの出来事が綴られています。

ここに登場する主要人物は2人、ハロルドとギョームです。二人とも当時のイングランド王家とゆかりのある人物でした。ハロルドは、懺悔王の妃の兄。1064年に難破してノルマンディーの街ポンテューに漂着し、その時に救助に対する礼として、ギョームを自分の代わりにエドワード懺悔王の後継者と認めたとされています。

一方のギョームはノルマンディ公国の正式な後継者。そして、ハロルドが漂着したよりも前の1052年に、イングランドに渡り、その時、当時から後継のいなかった懺悔王から、王位継承を約束されたとされています。この背景には、懺悔王の母エマがギョームの大叔母であること、さらに懺悔王は、一時イングランドがデーン人(デンマーク人)に支配されていた時代に、その支配から逃れるため20年余ノルマンディーに亡命していたこともあり、ギョームとは親しい関係にあったことなどがあるようです。

ところが、ハロルドは、その後再びイングランドに戻り、エドワード懺悔王が亡くなると、周りのお膳立てもあったとはいえ、ギョームとの約束を破り、ハロルド2世としてイングランド王に即位してしまったのです。

これを、恩を仇で返す裏切り行為、自分の方が正式に懺悔王から王位継承を受けたものでありそれはハロルド自身も認めてたはず、それに対抗しなければならない、という大義名分のもと、ギョームは船で英仏海峡を渡り、イングランドを攻め入りました。

そして、1066年ヘイスティングスの戦いにて勝利を収め、自らウィリアム1世としてイングランド王に即位したわけです。ハロルドはこのヘイスティングスの戦いの地「バトル」で戦死してしまいました。現地には彼を祀るモニュメントが今も残されています。

なお、展示は暗い部屋にこのように展示されています。

とても長いので途中でカーブしています。

英仏の因縁とフランスの最も美しい村

ところで、中世の頃の英仏の紛争の歴史でもう一つ僕の観光的に重要となっているのが百年戦争。

この戦争が行われた時代、現在のアキテーヌ地域圏はイングランド領となっており、このアキテーヌの領有権を巡って数々の戦いが繰り広げられたのです。そのときの最前線でもあった現在のドルドーニュ川沿いには、当時造られた城や街が点在していて、これらのいくつかが「フランスの最も美しい村」に選ばれています。ドルドーニュ県といえばフランスの最も美しい村の中でも特に美しい村が集中しているエリアです。

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また、アキテーヌ地方といえばボルドー。このボルドーも一時期イングランド領でした。このイングランド支配の時代にワイン生産が整備され発展したとも言われていますね。

歴史的にはいろいろな因縁と悲劇がありましたが、そのおかげもあり、このエリアには美しい街並み、そして豊かな食文化が育まれた、そして現在の我々がそれを享受しているわけです。少々話が脱線してしまいましたが、いずれにせよ、この英仏の因縁はこのノルマン・コンクエストから始まると言っても過言ではないでしょう。いやあ歴史ってほんと面白い。

次は同じカルヴァドス県にあるカーンに向かいます。この日の宿泊地です。まだ旅行が始まってたった2日しか経っていません。(続く)

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