訪問日時:2017年7月16日、午後3時頃
この3月になってようやく半年前の2017年7月に訪問したワロンの最も美しい村シリーズの執筆が終わったのですが、そのときの旅行で訪れたところは美しい村だけではなく、ベルギーの世界遺産もいくつか訪れていました。今回の旅行では3カ所の世界遺産に行ってまいりました。
中世ヨーロッパ的ではない世界遺産へ
ベルギーの世界遺産と言えばブリュッセルのグランプラス、ブリュージュの旧市街など中世の美しい街並みを思い浮かべる方がほとんどだと思いますが、今回訪れたのは、このような雰囲気とは打って変わって近現代の施設が世界遺産となったものが2箇所です。
- 03.トゥルネーのノートルダム大聖堂 -(2000年)
- 04.ワロン地方の主要な鉱山遺跡群 -(2012年)
- 05.ラ・ルヴィエールとル・ルーにあるサントル運河の4つのリフトとその周辺 (エノー州) (1998年)
今回のメインはワロンの最も美しい村巡りでしたが、このワロン地方、実は産業革命以降、ヨーロッパ社会でとても注目された場所でした。それはこの辺りには多くの鉄鉱石や石炭が取れたからです。実はベルギーという国は近代では鉄鋼業がヨーロッパ随一に栄えた国だったのです。ちなみに最近でこそ中国インド勢に押されてしまったものの、かつてはベルギーそしてその隣国のルクセンブルクも鉄鋼業で発展した国でした。
ワロン地方の主要な鉱山遺跡群
そしてワロン地方にはかつて栄えた鉄鉱石採掘場や鉄鉱石関連工場が点在していてそれらの工場群がひとつの世界遺産をなしています。我々はその一つである Le bois du Cazier(カジエの森)にある施設に訪れました。ここは「ワロン地方の主要な鉱山遺跡群」2012年にユネスコ世界遺産に登録されました。
ワロン地方の主要な鉱山遺跡群:https://ja.wikipedia.org/wiki/ワロン地方の主要な鉱山遺跡群
登録されているのは次の4つの4つの鉱山施設です。
- グラン・オルニュ (Grand Hornu)
- ボワ=デュ=リュック (Bois-du-Luc)
- ボワ・デュ・カジエ (Bois du Cazier)
- ブレニー=ミーヌ (Blegny-Mine)
現在はいずれも操業停止していますが、当時の施設をそのまま残しながらの博物館となっています。写真を見る限りではいすれも立派な博物館のようです。その中で我々はルート的にちょうど行きやすいところにあった「Le bois du Cazier(カジエの森)」を選びました。
人気度・知名度はいかほど?おもったよりも観光客がいました
シャルルロワ南側の高速のジャンクションを西へ、ジャンクションから5キロほどで現地に到着します。一応施設までの案内看板があったような気がしますが、わかりづらかったのでGoogle マップなどのナビがあったほうが良いでしょう。
カジエに着いたのは午後3時前くらい。施設には来訪者用の立派な駐車場がありましたが、我々がついたときはなんとクルマが一台も停まっていませんでした。世界遺産だけどかなり超マイナーな観光地なのか、もしかして観光できないのか、などと不安になりましたが、それは結局杞憂に終わりまして、敷地入り口の建物はとても立派で綺麗であり、中へ入ってみると観光客もそこそこいました。施設すぐそばにも路駐スペースがあったのでみなさんその場所に駐車してたのかもしれませんね。
さてこのカジエの博物館ですが、基本的に入場料を払って自由に見学することができます。オーディオガイドの無料貸し出しもあります。そして定期的にガイドさんが英語フランス語オランダ語で直接説明もしてくれます。ガイドツアーの申し込みも現地でできるみたいでした。我々はオーディオガイドで自由にするコースを選択。
施設・博物館がしっかりしている、というのは公式ウェブサイトもご覧の用にとても立派です。
公式ウェブサイト:http://www.leboisducazier.be
ちなみに2017年にはのべ6万人の人が訪れたようですね。これって多いのかな少ないのかな笑。
なぜか新郎新婦が写真撮影
どのくらいの知名度なのかはわからないのですが、訪れた時、ここでとある新郎新婦が写真撮影をしていました。
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確かに世界遺産とはいえ、鉱山跡ですからね、斬新です。確かに素敵な施設で写真撮影場所としても十分に映えるところだとは思うのですが少々びっくりしてしまいました。
しかしふたりともとても楽しそうだったのが印象的でした。なにか思い出の地でもあったのでしょうか。
bois du Cazier の歴史 産業革命以降の施設の世界遺産、なぜ世界遺産なのか
良好な鉄鉱石と石炭が取れるこのワロン地方、特にここシャルルロワを中心とした地域は、産業革命以後、ベルギーの経済活動において重要な役割を果たしてきました。bois du Cazierを始めとした現在世界遺産に登録されている4つの施設はまさにそんな近代ベルギー重工業の中心地となってたわけです。
炭鉱山としては1822年から始まったとされています。閉山したのは1967年の12月でした。
現在ではいずれの施設も長年にわたって果たした役割を終えて、今我々が見るような博物館に生まれ変わり、多くの観光客に対して、当時の技術、社会、経済の歴史を伝えるという役割を果たしています。
産業博物館
以下が現地でもらえる施設の地図が掲載されたパンフレットとなります。
写真パンフレットを見るとフランス語、オランダ語、英語、そしてイタリア語でしょうか。さすがマルチ言語が公用語となっているベルギーです。なお、このあたりはベルギー南部なのでフランス語圏となります。
まず一般の観光客は白い四角の1番の場所で受付を済ませてから施設内へと入ります。受付を通過すると地図右側の「Vous êtes ici (You are here)」と印がついている場所にでます。我々は番号順(赤い丸で書かれている数字)に鑑賞することにしました。1番は施設の正門となります。トップの画像はその正門を外側から撮ったもの(再掲)。
続いて向かったのは5番の施設から16番にかけての施設「産業博物館(Le Musée de l’industrie )」、パンフレットの地図では青い建物のところです。
ここでは蒸気機関の発明な歴史を説明していました。イギリスで発明され発展したこの技術はヨーロッパ各地に伝わります。
そして次第に技術が進歩するにつれて機械も大型化します。その機械を作るのに必要だったのが鉄。そして蒸気機関を動かすのに欠かせないものは石炭。これらの鉱石が採取話できるワロン地方が産業革命以降ベルギー経済の中心になだだのも頷けます。
ベルギーといえば、そもそも国土的には非常に小さいうえ、スペインやフランスからの支配、あるいは北部の方は神聖ローマ帝国に属していたなど、多国家の影響を受けるなど周辺の強国に翻弄されていたイメージがあるにもかかわらずなぜ一国家としてヨーロッパの列強として発展していったのか、長年疑問に思っていましたが、その理由の背景には恵まれた資源と産業があったからだったということを改めて知ることができました。
労働環境について
ワロン地方の鉱山における労働環境については、
1886年のカール・マルクスの書物に書かれていた「理想的な資本主義」の世界とは少し違っていたようです。女性や子供の労働者が搾取され、厳しい12時間労働を強いられていたようです。社会的権利や自由というものはどうやらなかったようです。
まさにこの展示パネルの風刺画のような状況だったと言えます。
ガラス博物館
ひととおり産業博物館の見学を終え、次に訪れたのはガラス博物館。
ガラス産業も産業革命以降大きく発展した産業のひとつです。
なかでもこのカジエの近くにある大きな街シャルルロワは、もともとガラス工芸が発展した街だったそうです。シャルルロワ(Charlesroi)でガラス工芸がはじまったのは、17世紀だと言われています。18世紀になると、新しい技術(verre à canons)が発明された、とパネルには書いてありますが、ググってもちょっとよくわかりませんでした。
19世紀になると、ガラス産業はめざましい成長を遂げたことで知られます。20世紀の初め頃までは、シャルルロワは世界のガラス工芸の中心地だったそうです。そして第一次世界大戦後には、さらなるガラス工芸における機械化技術の進歩から、シャルルロワのガラス工芸は最盛期を迎えます。世界的な機会化の流れはガラス産業にも大きな影響を与えました。
現在のベルギーのガラス産業ですが、ここシャルルロワで生まれたGlaverbel社ですが、なんと日本の旭硝子が1981年に買収していました。現在はAGC Glass Europeという名前となっているようです。
さて博物館ではこうしたガラスの歴史を説明するだけでなくアールヌーボ時代のガラス作品などの中心とした展示もされていました。さながら美術館といったところです。
もっともフランス語で Musée は博物館・美術館双方を指していますが。
1956年8月8日の大惨事
産業博物館、ガラス博物館を鑑賞し終え、一旦外へと出ました。ガラス博物館出口正面には、この施設の中で一番目を引くエレベータ施設の建物がありました。階段で建物の中を見学することができます。
さて、19世紀にベルギー繁栄に貢献したワロンの鉱山施設ですが、第二次世界大戦後になると次第に衰退していきます。そんなさなか起こった悲劇が1956年8月の大規模鉱山事故です。この事故による死者は262名、世界遺産に登録された2012年までにはこれを上回る鉱山事故はヨーロッパでは起きていないとのことです。
パンフレット赤い丸22番の貯蔵庫内には、その事故を記憶に残すために書かれた芸術作品があります。
この作品は当時のブリュッセルの王立美術学校の卒業生4人によって描かれたそうです。
実は敷地内正門付近には、事故で犠牲になった人を追悼するための追悼碑がありました。
さらに22番から28番の建物(地図内の紫色の建物)でも、この大惨事関連のパネルが展示してありました。事故直後に撮影された写真の展示も。当時の悲惨な様子がひしひしと伝わってきました。
またその展示場の床には大爆発が起こった1956年8月8日からの14日間の状況が書かれたパネルが埋め込まれていました。この大惨事を忘れてはいけない、後世にしっかりと伝えなければという強い姿勢を感じる場所でした。
炭鉱内の様子
22番から28番の建物には、稼働当時の炭鉱の様子を説明した展示もありました。こうした展示はたとえば日本における石見銀山などでもあるのですが、しっかりとした写真で稼働当時の様子を説明している珍しいのかもしれません。もっとも石見銀山のこととは時代が異なるので当然だとはいえます。
思い出の壁(le mémorial et le mur du souvenir)
最後は入り口に近い場所にある「思い出の壁」というところを鑑賞。といってもここはただ当時のこの施設の写真が飾ってあるだけです。それでも一通り博物館、施設全体を鑑賞し終えた後だったので、その工程で見かけたものが写真に写っていたりするため、意外と楽しむことができました。
訪問を終えて感じたこと
このボワ・デュ・カジエの施設・博物館をみて強く感じたのが、ベルギーの教育水準の高さでした。例えば産業博物館の返事パネルの説明も、丁寧でわかりやすいうえ、決して分量も少なくなく、端的ながらとても詳しい説明がなされていました。私は流暢ではありませんがある程度フランス語は読めるし、また高校の頃世界史を選択していたこともあり産業革命に関する歴史的な知識も多少なりとも備えていたとはいえ、博物館でのフランス語の説明文で多くを理解できたのは、ひとえによく考えられたパネル説明文の質の高さがゆえだと思いました。
概してヨーロッパの美術館、博物館のパネルによる説明は、日本では想像できないくらい細かく丁寧です。そして長いです。特にフランスはとても長いです。しかしベルギーのものは、この旅行でもいくつかの博物館等を訪れましたが、フランスやドイツと比較すると、過剰に長すぎずよくまとまっていると感じました。